今日は、ただ思うことを日記に綴るような感じで…書いていこうと思います。
重く感じとれてしまう長い文章になりますので、そういった文章が苦手な方は飛ばして頂いても大丈夫です。
自身が幼い頃に経験した言葉の重圧や◎のつく結果について、書いていきます。
自身が幾度となく限界を超えて、ひたすら必死に努力・勉強をしても…しても
◎のつく結果(合格点に達する結果)に繋がらなかったことがありました。
その結果に対して、男親に言われた言葉が未だに呪縛のように…自身に記憶されているように思えます。
「努力は、必ず結果(合格点に達する結果)に繋がる」と。
「◎のつく結果(合格点に達する結果)は、ただの通過点にしか過ぎず、それすらたどり着けないのは…どうしようもない人だ」と。
「結果に繋がらない努力・勉強は、努力でもなんでもなく・勉強もしているうちにはカウントすらされない」…という意味を持つと。
「血を吐くほどの努力・勉強をしていたら、結果は明らかに変わっていた」と。
「もっと、もっと限界を超えて出来たはずだ」と。
「自身の友人(合格点に達する結果に繋がった人)と比較すると、自身は劣っている(表に出せない程の)存在だ」と。
そういった冷酷で、ある視点から見たら正当な言葉で…言われたことを記憶しています。
そんな残酷的な言葉を真正面から受け取ってしまったので…
喪失感・絶望感・劣等感・自身に対する価値や限界・言葉の残虐さや重圧さに苛まれ、今までの全てを粉々に踏みつぶされたように感じました。
その当時の自身を一言であらわすと…
以前に紹介した、小説「海辺のカフカ」で登場するキャラクターが言っていました「空っぽ」という言葉がしっくりくる感じがします。
(小説「海辺のカフカ」についての記事はこちらです。↓↓)
それと同時に繋がらなかった結果には、色んな人の努力も関係していたので…申し訳ない気持ちと・恥ずかしさの気持ち・罪悪感にも苛まれたのを覚えています。
応えることのできない結果が、こんなにも…もどかしく・哀しく・報われることのないものだと悟りました。
改めて繋がらなかった結果を分析すると…
好奇心や探求心・向上心が気持ちに追いつかない…努力・勉強では、◎のつく結果(合格点に達する結果)に繋がりにくいかと。
(実際に自身の努力・勉強も不足していたのと、効率の悪さは事実ですが…)
◎のつく結果は、きっと
努力・勉強では補える領域ではない、ポテンシャル(隠された力)・能力・才能・運・タイミングも含まれていて…それがすべて重なった時(恵まれていた時)に◎のつく結果が目に見える数字・評価として確かめられる唯一の表現なのかもしれません。
自身は、能力という言葉の一部分は…
ポテンシャル・才能・運・タイミングも一部分に含まれているのではないかと思っています。
◎のつく結果に誰もが、目指し・悩み・左右される事だと思います。
どんな結果が待っていたとしても、努力・勉強に対するプロセス(過程)がどんな結果よりも貴重で…結果と比較できないほど価値のあるものだと感じています。
どんな結果でも、プロセス(過程)を振り返り…分析してみれば修正・追加できるキーワードやヒントのようなものが必ず見つかります。
それらを振り返り、分析・発見/見つけること(気づきの眼[あらゆる視点・方向性から見ること]を知ること)ができれば…
結果を上回る成長が、思いもよらない形で…自然と結果に変化してついてくると思います。(自身の個人的な見解ですが。)
自身の男親には、結果やプロセスを全否定されましたが…
プロセス(過程は)気づきの宝庫だと思っています。
秘めた夢や隠された自身の価値を見出すことのできる、希望に満ちたものだと感じます。
繋がらない結果から、気づきの眼を知ることさえできれば…
誰かが迷った時や自分が迷った時に、自身や誰かが広く羽ばたける場所を教えてくれると。自身の経験上、そう思っています。
長々と最後まで読んで頂き、ありがとうございました。